中島大祥堂のこと

「技術・伝統の継承」「新しい菓子文化の創造」と「おもてなしの心」。

1801年(享和元年)に京都・松原通にて初代中島治郎兵衛が「尾張屋」の屋号でお干菓子の製造を始めました。1912年(大正元年)には六代目中島治郎兵衛(弘喜)が大阪・都島で「中島大祥堂」として創業し、ちょうど100年の節目にあたる2012年に「中島大祥堂」ブランドを立ち上げました。

本来、中島大祥堂は初代当主から「和洋」にとらわれることなく、その時代々々のお客様に喜んでいただけるお菓子をご提供しておりました。歴代当主のその気概を受け継ぎ、「日本人に合う味覚の創造」「おもてなし」をコンセプトに、世界中の洋菓子・和菓子に目を配りながら、美味しい「お果子」(かし)を創って参ります。

お果子のこと

中島大祥堂では「お菓子」のことを「お果子」とよびます。

その昔、日本には砂糖がありませんでした。
当時の日本では甘みは「穀物」や「果実」からえるのが普通で、ようやく砂糖が使われ始めたのは遣隋使、遣唐使の時代に入ってからのことでした。
日本人の四季を大切にする気持ちや、四季にあわせた食の楽しみ方を考えた時、草冠のある「お菓子」より「お果子」の方がしっくりくるような気がしたので、中島大祥堂では「お菓子」のことを「お果子」とよぶことに決めました。